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​ご由緒

ご祭神

主祭神

猪田神(いだのかみ)・別名 武伊賀津別命(たけいがつわけのみこと)

配 神

住吉神(すみよしのかみ)
 ・底土命(そこつちのみこと)
 ・赤土命(あかつちのみこと)
 ・磐土命(いわつちのみこと)
 ・神功皇后(じんぐうこうごう)

摂 社

諏訪社 健御名方命(たけみなかたのみこと)
西宮社 蛭子命(ひるこのみこと)

末 社

護国社(ごこくしゃ)

境内社より合祀した祭神

大日霎貴命(おおひるめむちのみこと・神明社)
健速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと・津島社)
仁徳天皇(両社八幡社)
藤堂高虎公(両社八幡社)

境外社より合祀した祭神

依那古神(いなこのかみ)・宇迦能御魂神(うかのみたまのかみ)・小泉太郎左衛門公・坂戸神(さかどのかみ)・応神天皇・大物主神(おおものぬしのかみ)・市杵島比賣命(いちきしまひめのみこと)・大山咋命(おおやまくいのみこと)・天兒屋根命(おねのこやねのみこと)・猿田彦命(さるたひこのみこと)・菅原道真公・大山祇神(おおやまつみのかみ)・木花佐久夜比賣命(このはなさくやひめのみこと)・伊弉冊命(いざなぎのみこと)・火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)・速玉男命(はやたまおのみこと)・事解男命(ことときおのみこと)・倭姫命(やまとひめのみこと)・綾門日女命(あやとひめのみこと)

御神徳

家内安全・商売繁盛・学業成就・交通安全・厄除・安産・祈雨・止雨

​ご由緒

 主祭神である猪田神(いだのかみ・別名 武伊賀津別命)は、旧事本紀(くじほんぎ)に「伊賀国造 志賀高穴穂(しがのあなほのみや)朝御代(成務天皇) 垂仁帝皇子意知別命(おちわけのみこと)三世孫 武伊賀都別命(たけいがつわけのみこと) 定賜国造(くにつくり)」とあり第13代 成務天皇の時代に伊賀の国造に任じられた、伊賀臣の祖神である。その子孫である伊賀臣は伊賀郡(古くは伊賀には伊賀郡・阿拝郡・山田郡・名張郡があった)の郡司として猪田神社前方に集落を形成し郡衙(ぐんが・郡役所)を置き、政治経済の中心地として支配し、神社の森を神奈備の杜として祭祀を行ったのが起源と考えられている。

 天正15年(1587)の棟札によると、「始自勧請以来八百四年目仁下遷宮」とあることから延暦3年(784)に、社殿が建てられたことがうかがわれる。また、江戸中期に記された「三国地誌」によると、「延暦三年 白鷺空中を翔り 白羽の矢をくわえて松の樹上に止る時に その矢光を放ち 今の社地に止る 其矢をみれば住吉神と銘す 夫よりして此地に此神を祀り 古山 沖 市部 依那具 猪田 郡等の十七郷共に祭祀に預かる」とあり、神社前方の森に白鷺が住吉神と銘する白羽の矢をくわえて降り立ったので、社殿を建て猪田神と住吉神をあわせて祀るようになった。(此の住吉神は、当社より猪田の猪田神社と古山の田守神社に勧請(かんじょう)されている)

 平安時代には延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう・927年完成)の伊賀国25座の式内小社に列せられている。

 天正9年(1581)織田信長による伊賀攻め(第2次天正伊賀の乱)によって、本殿以下が焼失し猪田郷山出の小天狗清蔵により天正15年(1587)に再建された。

 明治43年には合祀令により、延喜式内社であった依那古神・坂戸神社をはじめ近隣神社(依那具・市部・沖・才良・上郡・下郡・森寺)で祀られていた神々を合祀した。

 昭和48年、本殿背後の斜面より「猪田経塚」が発見されている。塚は全部で13基が存在したものと考えられ、内3基からは瓦製経筒・三筋壺経筒が検出され、造営年代は12世紀末頃と推定されている。
 また、当社前方には「下郡遺跡」があり、弥生時代~室町時代の集落遺跡も見つかっており、特に平安時代の井戸からは延喜(901~923)銘の墨書木簡が出土している。

 氏子地域は依那古地区(依那具・市部・沖・才良・上郡・下郡・森寺・ゆめが丘)である。

ご本殿

 当社のご本殿は、一間社流造(いっけんしゃながれつくり)、檜皮葺(ひわだぶき)で、全体に丹塗りを基調に極彩色を施す荘厳華麗な建物で、昭和37年2月14日「三重県有形文化財」に指定を受けている。天正9(1582)の織田信長による伊賀攻めの兵火に罹り焼失するも、天正15年(1587)に再建されている。

鷺の森(さぎのもり)

 住吉神が降り立った場所。いまでも森が残されている。

両社八幡宮(りょうしゃはちまんぐう)

 文久2年(1862)に境内に創建。仁徳天皇・藤堂高虎公をお祀りしていた。

 当社の絵馬「渭水八景」に描かれた社殿には蔦紋があしらわれ、拝殿も備え付けられていた。

 仁徳天皇は三重県一志の川上若宮八幡宮より御勧請(ごかんじょう)、藤堂高虎公は当時の第11代藩主藤堂高猷(たかゆき)公から許可を得て、神像を造り御勧請された。

神輿

 藤堂蔦紋(とうどうつたもん)が記された神輿2基を有する。末社であった両社八幡宮(りょうしゃはちまんぐう・御祭神 仁徳天皇・藤堂高虎公)の神輿として、文久3年(1863)伊賀大庄屋のひとりであった青山羽根の亀井久大夫などから奉納されたものである。

満雨石祠

 満珠石(まんじゅいし)を祀る。 
 当社には2つの霊石がある。1つは満珠石と呼ばれ丸い形をした石で、もう1つは干珠石(かんじゅいし)と呼ばれ三日月型の石である。降雨祈願の時に満珠石を川に浸けると雨が降り、長雨の時に干珠石を浸けると雨が止んだと伝えられている。
 「三国地誌」にも「満珠石と云 神石あり」と記されている。

絵馬「黒馬」・「白馬」

 文久元年(1861)・文久3年(1863)に伊賀大庄屋のひとりであった、猪田の森田彌兵衛重徳より奉納された絵馬である。
​ 「黒馬」(文久元年奉納)には降雨祈願、「白馬」(文久3年奉納)には止雨祈願の意味がある。

絵馬「渭水八景(いすいはっけい)」

 慶応2年(1866)に奉納された絵馬で、近江八景にちなみ、猪田神社周辺の名勝を描いたもの。江戸時代の猪田神社の様子がうかがわれる。
「住吉秋月・真名井夜雨・日新山晩鐘・馬場晴嵐・鷺森落雁・手代堰帰帆・界外夕照・暮雪」

護国社

 日清戦争以後のご英霊を祀る。古くはこの場所に両社八幡宮があった。

御神船

 水神である住吉神にちなんで奉納されものであろう。宝暦2年(1752)の棟札によると、「御神船 勢州津 矢納伝吉」とある。

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